今日は、琉球人が歌を好む理由について、琉球の歴史に沿って僕なりに考察してみたいと思います。客観性に乏しいので確固たる証拠・ソースはないですので、その辺はアバウトに読んでください。間違っている情報がありましたら何卒ご指摘ください。
ちなみにここでいう琉球人というのは、かつての琉球王国最大版図に含まれた土地の人たちのことです。ウチナーンチュ、と書くと本島の人や沖縄県民だと思われる場合があるので、奄美諸島も含め琉球人という表現を使ってみます。
歌というのは、おおよそ世界中で、作業歌として発現してきました。農業、漁業、林業、製鉄業、手工業、長距離移動などにあって、その作業内で歌われました。中には歌によって統率を図ったり、追分などでは道に迷わない為、のような目的も出てきます。そして神に捧げる儀式歌も発達してきます。これは、「祭=望むべき結果の再現」と考えれば自然な発想です。言霊思想があれば、神への言葉を歌に乗せて伝えたわけです。
琉球世界を見ますと、古くから海上の道が発達し、縄文期に既に遠隔地まで交流があり、北海道の遺跡から亜熱帯固有の装飾用の貝が出土してるそうです。当時から優れた航海技術と船造りがあったことはよく言われていますね。と言っても、久米島〜沖縄島〜朝鮮半島・北海道までは島追い航法(次の島が目視できるということ)が可能ですので、技術レベルが発達していなくてもある程度航海が可能でした。それに加えて保存食の確保、脚気予防の海蛇(イラブー)燻製(ビタミン剤)、各地の港での交渉術などがなければ実現できなかったでしょう。しかしこの遠洋航海、生命の安全が達成されていれば、実に暇だったと思われます。そこで昔の人々は民話を語り、歌を歌ったのだと思われます。
三山分裂の戦国時代になると、各地の豪族が私腹を肥やすために港の開発に人力しました。そこで海上交通が広く一般に開放されていきます。元々糸満の漁民などは漁のため遠方まで出ていたようですが、それに加えて商人や倭寇も港を利用するようになりました。この時代から朝鮮半島や中国海南辺りと、公的私的ともに交流がありました。そこで発生するのは遠洋航海民が芸達者になることです。会話による交渉術ももちろんですが、歌がうまいというだけで商売は繁盛します。また、各地の港でその土地の民話や歌を覚えて、別の地で歌うのも受けたでしょう。商売のためではなくとも、見聞を広めたいという冒険欲はいつの時代も持ち合わせていたはずです。特に琉球諸島は文化が早くからガラパゴス化し、島が違えば言葉が違う、大きな島では部落単位で言葉が違うことがありました。言葉が異なるということは、世界観が違うということですから、国内移動でさえガリバー旅行記のような冒険が実現していたことでしょう。
異文化が簡単に交錯する世界が構築され、その中で発生したのは歌の互酬性です。歌が歌えるということは見聞が広く、豊かな世界観を持っているということだったので、一種のステータスになります。また、「この土地の歌はどんなだ?」と聞かれる機会も増えるため、土地を代表する歌を創出する必要性も迫られます。国王が視察する度に歌が増えたのでしょうね。
カミウタも存在していました。おもろやウムイ、奄美のおもり、クェーナなど色々あります。おもろの中に「とよむ」という表現があり、現在では「鳴響む」などと字を当てますが、これは権勢を誇っていることを賞賛する言葉で、謳歌する、のような意味ですが、こういう表現を持って力の在処を示すのは特筆すべきことかと思われます。クェーナは航海安全などを祈願する歌です。おもろは時代が下ると神職の特権的な一部の人間のみに歌われる門外不出の歌となります。琉球王国時代、神職はすなわち政治指導者でした。その儀礼の実行は、民衆の支配に結びついていたのです。それでも民衆は神と歌の間に、年間多種多様に存在する祭を通して関係性を見出していたと思われます。
さらに熊野の高野山などから仏僧が多く渡来していた事実も見逃せません。彼らは念仏を唱える者(ニンブチャー)として民衆の冠婚葬祭などで関わります。当時仏僧は身近な御用聞きであり、かつインテリジェントでありました。日本からの遊芸者も来国していたようで、日本の鳥刺の歌や馬舞者が演じられたそうです。高平良万歳の中でも馬舞がありますね。万歳や祝い歌としてハレの日に上演されたのでしょう。
中国東南部の三絃(サムヒェン)という楽器が琉球に輸入され、琉球の民衆や士族達に寵愛されるようになります。高級なビルマニシキヘビの皮は富裕層しか入手できなかったので、貧乏人は、和紙に芭蕉の渋を塗って代用品とした渋張り三線が作られ、従来の琉球文化に溶け込んでいきます。三線の祖とされる歌者アカインコはおもろ詩人であったそうです。
尚真王代になり、琉球統一、天下太平の琉球黄金時代が一世紀に渡り続きます。この間に各種芸術方面で凄まじい発展を見せました。すなわち、芸術としての歌という性質を屈託なく出せたわけです。首里士族のステータスとして、床の間に蛇皮三線、また当主自身も琉歌を詠めて三線を弾けることが重役に着くための最低条件の一つでした。この頃、日本の平安期の貴族のような歌詠み遊びも上流階級で流行します。
明との朝貢貿易は三山時代より続いていましたが、これにおいては国使が船上で長期間暇をもてあそばれるわけですから、なんとしても歌・踊りを用意しなくてはならなかった。それも下衆のものではなく、国を代表する最高の芸術で応対することが必要でした。儒教思想も相まって、礼節を表現するための歌・舞が外交のために用意されていきました。なんといっても当時の中国は世界の中心ですから、不敬をなすような歓迎は許されなかったのです。中国風でかつ琉球独自の音楽である、御座楽や路次楽が誕生したり、慶長の役の後には踊奉行玉城朝薫によって組踊なる、京劇や能をベースした琉球民話に基づく歌舞劇(オペラ)を完成させました。
琉球は中国との朝貢貿易だけでなく、マラッカから蝦夷地まで東アジア世界全域で貿易を展開します。那覇港は東アジアの物産、民族、文化の集積地になったわけです。長い船旅の中で歌をたくさん歌える者がいる、というのも琉球の魅力の一つだったことでしょう。1562年には琉球に来ていた堺の商人が三線を持って帰り、それが低迷していた琵琶界をなんとかすべしと模索していた琵琶法師・中小路法師の手によって改良され三味線になったそうです(諸説あります)。三線という楽器だけ持って帰ったかも知れませんが、もしかしたら琉球や船上で歌と奏法を覚えて堺港で披露したかもしれません(三線ではなく三絃であったという説もあります)。
この時代になっても歌による政治的統治が存在します。池上永一著のテンペストでも紹介されましたが、聞得大君のミセゼルが政治にある程度実効力を持っていました。また、国王が久高島に参詣する際は、道中ずっとおもろが歌われたそうです。芸術性だけでなく、神性も一段と高まっていきました。まさに歌を中心とする儀式での国民統治、と言っても過言ではないでしょう。
さて、1609年の慶長の役ののち尚寧王は島津家当主家久に参拝したのですが、この時、一国の領主同士の面会という非常に権威ある場ですから、当然のように琉球から楽隊が派遣され荘厳な儀式が執り行われましたが、島津側は、このような会合の場に鳴り物を持ち込むのは良くないと不機嫌だったそうです。ここに日本と琉球の歌に対する圧倒的文化格差を見出せます。春駒や傀儡子と言えば香具師や世間師など、身分の低い者のイメージになります。また、日本では将軍や領主の物忌みであれば国中で鳴り物を禁止したそうです。琉球は国葬の際、陵墓まで棺を運ぶ間中おもろを歌ったそうです。日本において公式の場では、歌を歌うことは下賤で無礼なことがあったのです。去る2011年3月13日に行われた琉球王朝礼楽公演も、世間では公演や演奏会の類はすべて自粛していたのですが、ジンブンのある先生が、今沖縄ができることは募金くらいであろう、ということで咄嗟に募金箱を設置し、収益の何割かを被災地へ送金しました。
また、那覇に薩摩の役人が常駐するようになり、島津側の命令もあって士族の間では日本文化励行の傾向が出てきます。琉歌だけでなく和歌や大和風の歌舞も歌われるようになります。
恩納ナビーの時代から毛遊び(モーアシビ)は一般化していました。農民が余興で歌を楽しむという文化が定着していたのです。男女が複数人より集まって歌のうまさを競ったりします。歌の内容は次第に過激なものや性的なものになり、気のあった男女でイチャイチャする、というのが一般的だったようです。これは西日本にも広く見られたそうです。
琉球王朝崩壊後は、首里士族は職を失い、組踊を中心とした御冠船踊(ウカンシンウドゥイ)を民衆化させ町の舞台で公演する者もでてきます。次第に劇団が沖縄本島を巡業して舞踊を披露する形態が出てきました。新しい狂言(チョーギン)や雑踊(ゾーウドゥイ)も考案され、公演熱に拍車がかかります。歌劇、史劇、連鎖劇など、いわゆるウチナーシバイが島中で盛り上がりを見せます。終戦直後でも、収容所内の一般市民が米軍のゴミから三線を作って歌を歌ったというのはあまりにも象徴的な話です。戦争被害のために真っ先に組織された慰問のための松竹梅の沖縄歌劇団という存在も沖縄らしい感じがします。
戦後はアメリカンミュージックがコザなどの基地門前町で流行ります。当時世界の文化の最先端を走っていたアメリカ文化が流入し、大日本帝国下において近代改革を先延ばしされ続けた沖縄県が突如として現代化します。同時期に琉球民謡最盛期となり、登川誠仁先生の民謡ショーの考案や、照屋林助先生のワタブーショー、普久原恒男先生、知名定男先生による新民謡、嘉手苅林昌先生、城間徳太郎先生などによる地謡などなど、ビッグネームには枚挙にいとまがありません。また、エイサーも現在の形になり全島で精力的に取り組まれます。そういえば映画「ナビィの恋」もミュージカルチックですね。喜納昌吉やネーネーズ、りんけんバンドや与那覇徹、アヤメバンドやディアマンティス、BEGINや夏川りみなどによる琉球ポップスも多種多様に変幻を見せています。今年で20周年を迎える3月4日三線の日イベントも、一日中島中でかぎやで風節が流れ、島の代表的な音楽イベントになりました。近年では日本のみならず、世界中で琉球音楽の催し物が広まっています。
内地と比べて沖縄では今もなおラジオメディアが寵愛されています。どこへ行くにも車と船が必要なので、ラジオは必需品です。そんなラジオから今日も琉球の歌が流れています。
P.S.去る3月2日の琉球新報の記事内にて「沖縄タイムス主催芸術選賞選考会三線新人賞」を来年受験するとありましたが、インタビュー時はそのつもりだったのですがその後師匠と相談して今年受験することになりました。そして6月3日に受験し辛くも合格したことをここに記します。